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2019.8.5
スポーツ

みんなが知ってるスポーツ選手のめっちゃいい話 -vol.2-

大望青年会スポーツ選手のめっちゃいい話

森末慎二 元体操選手


実は、ずっと前から疑問だったのだ。
なぜ、体操はこんなにも進化してしまったのか。

54年前の東京オリンピックに出場した体操選手にとって、平行棒での「倒立から前方宙返り支持」や鉄棒の「後方とび車輪1回ひねり」は、超一流のレベルだけがたどりつける“聖域”だった。技の難易度は「C」。いまでもよく使われる「ウルトラC」という単語は、C難度をも超えるとんでもなく高度の技を表現したかった、スポーツ新聞の記者による造語だとされている。

それがどうだろう。かつてはオリンピックに出場するような超一流アスリートの中でも限られた者にしか演じることのできなかった技が、いまは高校生のインターハイでも普通に見ることができる。オリンピックに出場するような選手たちが挑戦する技の難易度は、いまやD、E、F……「H」にまで達している。

ちなみに、東京オリンピックの男子100m 走で優勝したボブ・ヘイズのタイムは10秒6だった。ウサイン・ボルトが持つ最新の世界最高記録は9秒58。つまり、半世紀以上かかっても、タイムは0.18秒しか(と書くのはいささか抵抗もあるが)縮まっておらず、仮にヘイズが現代の進化したシューズ、反発力の高いトラックで走っていたら、9秒台への突入は確実だろうし、ひょっとすると逆転だってありえるかもしれない。少なくとも、日本のインターハイに出場したら埋没してしまった、なんてことはありえない。

トレーニング方法や栄養学、さらには使用するギアに至るまで、スポーツを巡る科学は日進月歩を続けている。それでも、大多数のスポーツでは、かつて超一流とされた領域が依然として超一流であり続けている。なのに、なぜ体操は……。

「ああ、理由は簡単ですよ。たくさん失敗できるようになったから」

長年抱き続けてきた疑問をあっさりと氷解させてくれたのは、ロサンゼルスオリンピックの鉄棒金メダリスト、森末慎二さんである。

「わたしが体操始めたころはね、鉄棒の下って砂だったんですよ。そりゃコンクリの上に落ちるよりはマシだけど、落ち方によったら結構な怪我をしちゃうこともある」

なるほど。でも、それと技の進化にどんな関係が?

「いまはね、落ちても痛くないんですよ、クッションが進化してるから。で、痛くないから、落ちることを怖がらずにいろんな技に挑戦することができる。何度でも、何度でも、できるようになるまで落ちることができる。加えて、自分がどんな状態だったか、すぐに映像でチェックすることもできる。そりゃ進化しますって」

言われてみれば納得である。下が砂であれば、たとえば頭から真っ逆さまに落ちる危険性のある技にはどうしたって挑戦できない。百歩譲って素晴らしく向こう見ずな体操選手が挑戦したとしても、せいぜい1回か2回やってみるのが精一杯だろう。

何せ、落ちれば脳天杭打ちである。そんなものを連発で食らっていたら、矢吹丈より深刻なパンチドランカーになってしまうこと確実である。学校によっては部活そのものを禁止するところが出てくることも考えられる。

だから、現代の感覚からするといたって長閑で、正直なところ「よくこの程度の難易度でメダルがとれたよな」と思ってしまうこともある、ムーンサルト(月面宙返り)に代表されるウルトラCは、かつての体操選手が文字通り身体を張り、時には命の危険とも向かい合って開発してきたものだったのである。

おそらく、体操競技と同じようなことは、冬季オリンピックのいくつかの競技にも当てはまる。

たとえばモーグル。里谷多英さんが金メダルを獲得したのは20年前の長野オリンピックだが、当時の映像を見返してみると、 平昌で展開された多様なテクニックとの差に愕然とさせられる。それこそ、森末さんの話をうかがっていなかったら、ちょっとした侮蔑の念すら抱いてしまったかもしれない。

だが、あのころは冬のスキー場で練習するしかなかったモーグルは、夏でもトレーニングができるようになった。空中に身体を踊らせた彼ら、彼女らが舞い降りるのは、雪の上ではなく水の上である。これならば、脳天から落下しても深刻な怪我にはなりにくいし、何より練習の頻度が格段に増える。多くの選手がジャンプのレベルを向上させていったのも当然である。

それにしても─。

森末さんのおっしゃった「たくさん失敗できるようになったから」体操は進化したのだという言葉は、単に長年の疑問を氷解させてくれただけでなく、わたしにとって今後の人生の道しるべにもなってくれそうな気がする。

誰だって失敗はしたくないし、失敗を目的としてしまうのはナンセンスでしかない。だが、失敗を恐れて挑戦をやめてしまったら、新しいものは生まれない。

若い世代は、特に。

もし自分の子供が困難な目標を前に立ちすくんでいたら。背中を押すだけでなく、落下した際の「進化したクッション」になれる親でありたい。たとえ失敗しても、子供が痛みや傷に苦しめられることがないように。その繰り返しが、きっと子供を成長させてくれる。

さて、失敗できる環境が生まれたことで劇的な進化を続けてきた体操界だが、今後はどうなっていくのだろうか。森末さんの答えは、これまた明解だった。

「もうそろそろってところまで来てると思うよ。昔は、新技っていうのは完全なオリジナルだったけど、最近のは技と技の組み合わせだからね」

うかがったのはあくまでも体操について、なのだが、森末さんのお答えは、なぜか人生や社会のあり方にも通じるものがあるように聞こえて仕方がなかった。

ちなみに、60歳を超えたいまでも逆立ちは難なくこなすという森末さんだが、昔と違うのは「顔が赤くなっちゃうんだ。若いころは絶対にそんなことなかったのに」とのことである。

(かねこ たつひと)

金子達仁 プロフィール
1966年、神奈川県生まれ。スポーツライター。法政大学社会学部を卒業後、日本スポーツ企画出版社に入社。『スマッシュ』『サッカーダイジェスト』編集部を経て、95年にフリーとなる。主著に『28年目のハーフタイム』(文春文庫)、『ラスト・ワン』(日本実業出版社)など多数。最新刊に『プライド』(幻冬舎)がある。

 

 

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