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2019.10.15
オススメ 教理 おたすけ

世界たすけに活かすおやさまご逸話 〜逸話篇三一 天の定規〜(養徳社・茶木谷吉信)

逸話篇養徳社

 
養徳社より書籍の紹介です。

 
「世界たすけに活かすおやさまのご逸話」
茶木谷吉信 著

 


 
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はじめに

私は海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。

—アイザック・ニュートン

 私は教理とか教祖のひながたなどを考えるときに、いつもこの言葉を思います。教祖の親心というのは、気づけば気づくほど奥が深いことがわかり、また知れば知るほど知らないことが増えていきます。まだまだ「真理の大海」は遠く私の手の届かないところにあると気づいて途方に暮れる一方で、好奇心の渦が巻き起こり、さらに顔を上げて広大な海を見つめるのです。

はや/\としやんしてみてせきこめよ
ねへほるもよふなんでしてでん

(五号 64)

このねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに

(五号 66)

 私は本当に「教えの根」を掘っているだろうか。本当に頼もしい道を歩んでいるか。こういう自分への問いかけを繰り返すたびに、もっと学びもっと体験することの大切さを痛感します。
 
 教祖のひながたをたどるということは、単に形を真似ることでないのは言うまでもありません。貧のどん底に落ちきられたからといって、枯れ枝や枯れ葉で暖を取りながら、電気のない生活をすることは、現代では不可能に近いでしょう。「監獄にご苦労くだされたこと」そのものがひながたならば、私たちは罪を犯さねばならないということになります。
 
 では、ひながたをたどるとは、どういうことでしょう。

 比叡山に千二百年消えない炎があります。しかしそれは千二百年前の炎ではありません。今の空気と油で燃えている。同じように、我々は教祖を130年前の教祖と思っていないでしょうか。そうではなく、「ご存命の教祖」とは、今の空気の中で息づいておられる教祖のはずです。

 私はこう思います。大切なことは、ひながたにこもる教祖の思いをかみしめ、「今」に活かすことではないか。つまり「今のこの問題に対して、教祖なら何とおっしゃり、どういう行動をなさるだろう」と考えることではないか。

 そのためにもひながたの本質をしっかり勉強したいと思うのです。
 
 ところが、『稿本天理教教祖伝』(以後、教祖伝)、『稿本天理教教祖伝逸話篇』(以後、逸話篇)を拝読させていただきながら、大切なことをうっかり読み飛ばして、あとになって気づくことがあります。読み飛ばしてしまっていた中に、教祖の思いを「今」に活かす大切なカギが隠されていることに気づき、はっとする場面が何度もありました。

 この本は、私が“気づき”、それが“おたすけのヒント”となり役に立ったということを、つたない体験を交えてしたためたものです。
 
 日ごろ逸話篇になじみの少ない方にもわかりやすいように、なるべく平易な言葉を使いました。どうしても説明の中に専門的な言葉や解説が入りますが、難しい註釈は読み飛ばしていただいても、意味は通じるように書かせていただいたつもりです。

 本格的に研究をなさっている方から見れば、「それがどうした」と思われるようなことばかりだと思うのですが、一ようぼくの奮闘記としてお読みいただければ幸いです。
 
 ひながたの解釈に「これが正解だ」と軽々しく決めつけられるものはないと思います。あくまで私が感じたこと、私の悟りとしておつき合いくださいますようお願いいたします。
 
 なお、本の末尾に「研究ノート」として、現在私が調査中のご逸話に関することをつけ加えました。内容は少し専門的になりますが、たいへん興味深いものです。ぜひご一読ください。

 
 
(以下、本文より)
 

「逸話篇三一 天の定規」

 

ケンカの原因

家庭や職場で意見がぶつかり気まずい思いをすることがあります。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と、心理学者のアドラーは言いました。それほど人付き合いとは難しいものです。
 

 私たちがケンカや言い争いをするとき、つい自分は正しく相手は間違っていると思いがちです。自分の主張を通し、相手がいかに間違っているかを言いつのります。こうなると水掛け論に終始して結論は出ません。仲良く治まったように見えても、実はどちらかが我慢しているだけの場合だって少なくないと思います。
 

 ケンカとは、ほんとうにどちらかが正しくどちらかが間違っているのでしょうか。言い争いは、どちらかが真っ直ぐでどちらかが曲がっているから起こるのでしょうか。
 

 人は皆それぞれに「真っ直ぐ」の判断基準を持っています。最初から曲がっていると思いながら行動をすることは、めったにありません。そしてその「真っ直ぐ」は一人ひとり違います。
 

をやこでもふうふうのなかもきよたいも
みなめへめへに心ちがうで

( 五号 8)

 

 私は刑務所の教誨師もつとめており、個人教誨といって、刑務所で受刑者とカウンセリングのようなことをすることもあります。そういうときに気づくのですが、犯罪者でさえ、その犯罪に対して「真っ直ぐ」だったと思っている場合があります。こじつけであれ、その人にとっての「真っ直ぐ」を訴えられる場合があるのです。
 
 私たちは社会において、お互いの「真っ直ぐ」を示し合い、摺り合わせながら生活しています。法律とは、この摺り合わせをまとめたものです。
 
 実は私たちが経験するやっかいなケンカやもめ事は、どちらかが「曲がっている」から起こるのではなく、どちらも「真っ直ぐ」である場合が多いのです。つまり「真っ直ぐ」同士のせめぎ合い、ぶつかり合いだと言えます。
 
 

ハエ入りのお酒を飲ませる極悪人

 以前、こういうことがありました。私が生まれ育った教会に、部内教会の前会長さんが住み込んでおられました。毎日夕食の時に一杯のお下がりのお酒を、おいしそうに飲まれるのが日課でした。
 

 ある日「ごはんですよ」の声に食堂に行き、ふと前会長さんの席に据えてあるお下がりのお酒を見ると、神様にお供えしているときに入り込んだのか、ショウジョウバエが一匹浮いていました。
 
 前会長さんはもうそこまで来ておられる。注ぎ直す時間は無い。私はとっさに、そっとつまんで捨てました。それを、小学校2年生の妹が見ていました。なんということをするんだという、不信感いっぱいの視線でした。
 
 いざ、前会長さんがお酒を飲もうとした瞬間、案の定、妹が「あ〜!」と声を上げました。
 
「おじちゃん、そのお酒には……」
 
 そう言いかけたとき、私は妹に向かって「黙っていなさい!」と怒鳴ったのです。当然妹は、なぜ怒鳴られるのかわかりません。猛烈に抗議してきました。
 

「なぜ? お兄ちゃん、ずるい!」
 
 ショウジョウバエが浮いていたお酒を、何事もなかったかのように黙って飲ませる兄。妹には私が極悪人に見えたでしょうね。これが子どもの「真っ直ぐ」です。どこも間違っていません。お酒にショウジョウバエが浮いていたと教えてあげること。これは妹の正義。実に正統な「真っ直ぐ」です。
 しかし、私はなぜ「黙っていなさい!」と怒鳴ったのでしょう。
 
 私は前会長さんの性格も人間性もよく理解しています。ショウジョウバエが浮いているくらいで、お酒を捨ててしまうような方ではないこと。新しいお酒をお出ししようとしても、かえって遠慮なされ、「そのお下がりでいい」とおっしゃること。そういうことが簡単に想像できました。だったら、知らない方がおいしくいただいていただけるのではないか。そこで私は「黙っていなさい!」と怒鳴ったのです。これは、私なりの正義であり「真っ直ぐ」です。
 
 いかがでしょう。こうなれば、もはやどっちが「真っ直ぐ」か、という議論ではなくなっているのではないでしょうか。どっちが正しいか、ではなくてどっちが相手に対して誠真実なのか、ということになるでしょう。人間の「真っ直ぐ」に正解などないのです。
 
 こういうことは、お互い日常生活でよくあることです。お互いの「真っ直ぐ」を主張しあう。そしてもめ事になり、喧嘩になり、人間関係に修復不可能な溝が生まれる。こうして悩みごとが生まれ、心を病む人だって出てくるのです。
 
「真っ直ぐ」について、教祖がお説きくだされているご逸話があります。
 
 

「逸話篇三一 天の定規」

教祖は、ある日飯降伊蔵に、
「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」
と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、
「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」
と、仰せられ、更に続いて、
「隙がありませんか。」
と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」 とお答えすると、教祖は、
「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」
と、お教え下された。

 

「天の定規」をあてると見えるもの

「真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と言いつけられて、飯降伊蔵先生は一生懸命真っ直ぐな柱をお作りになりました。「櫟本千軒きっての正直者」と言われた方ですから、プロの大工として誠心誠意、真っ直ぐな柱を作られたことと思います。しかし柱をお目にかけたとたん、教祖は間髪を入れず「一度定規にあててみて下され」と仰せられました。考えてみたら、少しいじわるのようにも見えます。でも、これこそがこのご逸話を理解するヒントです。つまり、最初から人間の「真っ直ぐ」に限界があることをご存じだったのではないか、ということです。
 
 定規をあてたらやはり隙がありました。そこで教祖は「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、大切な教理をお諭しになるのです。
 
 このご逸話でお示しいただいていることは、「天の定規」を判断基準にする大切さです。
 
 そのほかにも、「私」の真っ直ぐには限界がある、と自覚すること。もしかしたら、相手から見たら「私」の方が間違っているように見えているのではないかと気づくこと。つまり、お互いの「真っ直ぐ」を認め合い理解する、最低でも理解しようと努力することも含まれると思います。そのためには黙っていては何も解決しません。談じ合いをすること、これが大切です。
 

 しょせん人間同士の「真っ直ぐ」ですから、合うはずがない。でもそれを天の定規——親神様の教えに照らし合わせることを知っているのが私たちようぼくです。自分の「真っ直ぐ」を一度捨ててみて、天の定規にお互いが合わせる努力をすることが大切です。何度も失敗を重ねて、少しずつ自分の「真っ直ぐ」が天の定規に近くなるように摺り合わせていく。天の定規と自分の定規の隙を埋めていくのです。
 
 ですからどんな場合でも「オレに合わせろ」ではだめですね。しょせん人間の「真っ直ぐ」の域(いき)を出ません。合わせている方にストレスが生じます。「お互い天の定規に合わせていこう」という談じ合いをすれば、ケンカやもめ事が起こる余地はありません。
 
 さらに言えば、私たちは教えのすばらしさを人に伝える使命を帯びた者です。天の定規に沿うことがすばらしい人生を送る最短コースであることを、未信の人に伝えていくことも大切だと思います。
 
 天の定規に沿った「真っ直ぐ」は美しいのです。あの人の「真っ直ぐ」は、他の誰の「真っ直ぐ」より美しくてカッコいい、そう思っていただけるのが「なるほどの理をせかいに映す」ということでしょう。これがようぼくの使命であり、何よりのにおいがけになります。
 
 今は亡き三代真柱、中山善衞様は、

「自分自身の生活態度を教祖の教え通りに正直に実行することが、何はさておき、私はこれが一番、最大、最強、最高のにをいがけであり、そしてそれがまた、おたすけへつながっていく行為であるということを自負して頂きたいのであります。」

(立教144年〈1981〉3月30日天理教学生会第17回総会におけるお話)

とお述べになりました。私はこのとき学生として会場にいたのですが、すごく胸に響きました。このお言葉が大好きで、今でも時々人に話します。
 
 私たちは、どうしても人の意見に流されたり、自分の好き嫌いや保身に左右されたりします。このご逸話は、みんながそう言うからといっても流されないで、日常の出来事を教えに基づいて判断することの大切さを教えてくれていると思います。それを「定規」という身近な道具で見事に言い表されたと思うのです。
 
 
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茶木谷吉信 (チャキタニヨシノブ)
(著/文)
昭和35(1960)年 熊本県菊池市生まれ
昭和58(1983)年 熊本大学文学部哲学科卒
昭和59(1984)年 天理教正代分教会長拝命
平成17(2005)年 熊本刑務所教誨師
平成25(2013)年 玉名市主任児童委員
 

<書籍紹介>
『稿本天理教教祖伝』『稿本天理教教祖伝逸話篇』などには、教祖中山みきが当時の人々と触れあった姿が、具体的に書き記されている。その一つひとつを、一言一句、句読点にまで注意して丹念に読み、時代考証を加え、話の背景をさぐり、まるでドラマのワンシーンを見るかのように映像化して見せてくれるのが本書である。
 
 熊本大学哲学科卒。在住する市の教育委員会でも活躍し、青少年問題にもくわしい筆者は「ゲーム依存」などという現代病にもスポットをあてて、その解決方法までを教祖中山みきの「逸話」に探し出している。
 
 探究心のかたまり。不断の努力で積み上げた広範な知識と、天理教信仰者としての実践に裏付けられた著者が、世界中をたすけたいという、教祖中山みきの思いに近づこうと歩みつづける情熱から生まれた一書である。

 
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