Wa-luck(ワラック)

2020.8.29
信仰エッセイ 子育て

お母さんと呼ばれる日々 vol.11「妻、母、私」(さんさい・松上京子)

さんさいお母さんと呼ばれる日々少年会

第十一回 妻、母、私

自分はいったいどんな人間なんだろう?青春の真っ只中にありがちな問いを、私は子育てする中でもたびたび自分に向けていました。もちろん自分の全てを知ることなど不可能だし、知っていると思い込んでいるだけということも多いはずです。子どもと一緒にいると、ふだんあまり考えないような〝自分〟に向き合ったり、自分がまる裸にされてしまう、と感じたりすることがよくありました。成長の過程で変化を目にした時には、やった!、歯が生えてきた。歩いた、しゃべった、といちいち飛び上がりそうなくらい嬉しくて、我ながら単純だなあと思いました。子どもをカッとなって叱った時には、ああ、なんて気が短いんだろう。言い方がまわりくどいし、私って結構意地悪だ、などと自己嫌悪に陥りました。また、寝顔や笑い顔を見ただけでほろっと涙が出てきて、私ってこんなに涙もろかったっけと思うこともありました。他の人と接する時には奥底に隠れて見えない感情が、子どもという純粋なフィルターを通して溢れ出てきてしまうというような感じでしょうか。ウソ偽りのない素の自分に何度も直面し、こんな自分がいたのかという発見の連続です。驚いたり、嫌になったり、時に怖かったり、可笑しかったり。まったく忙しいものです。そして、そんな自分との出会いは面白いものでした。
「子育てしていると○○ちゃんのお母さんとしか呼ばれなくなり、何だか少し寂しいような気がする」という声を聞いたことがあります。それまでの名前や肩書きで呼ばれることが少なくなり、自分の存在を否定されているような気がする、あるいは世界が狭くなったと感じてしまったのでしょう。けれど、私はそうは思いません。なぜなら、もともとの自分がなくなってしまうわけではないからです。○○ちゃんのお母さんとは、もとの自分にプラスアルファされたものです。京子さんであった私が月日の流れとともに松上さんの奥さんやお嫁さんになり、さらに経験を重ねてさよちゃんやエイちゃんのお母さんと呼ばれるようになるのです。人生で、迷いながらいくつもの選択を重ねた結果そうなったのです。

「松上くんの奥さん」と呼ばれた時は本当にドキドキしました。奥さん、奥さん、奥さんかぁと小声で反芻し、その言葉を噛みしめました。ご近所のおじいちゃんやおばあちゃんから「松上さんの家のお嫁さん」と言われた時は、その響きが照れくさくてたまりませんでした。お母さんと呼ばれた時も同じ。しかも私はずいぶん長い間、そのドキドキや照れに慣れませんでした。内面の興奮を悟られないよう澄ました顔をしていましたが、そんなふうに呼ばれるたび心の中ではいつも「ひゃーっ」と叫びたいぐらいの新鮮な感動だったのです。奥さんやお嫁さんやお母さんとなってから出会った人たちとの繋がりは、自分を確実に変化させてくれます。交友関係は二倍三倍になり、世界は逆に広がると考えた方が正しいのではないでしょうか。妻にも母にもなって良かったなぁと私は思っています。
○○ちゃんのお母さんと呼ばれる時期を思い切り楽しみましょう。いつか時がきて、それは子育てを終えた時とは限らず、お母さん業の真っ最中であるかも知れませんが、自分自身が本気で望むのであれば〝私〟の部分で何かやりたいことがきっとできると思います。根本にあるアイデンティティは決して揺らぐものではありません。いつだって私は私なのです。誰もが言うように子育ては大仕事に違いありませんが、いろいろな自分と出会うことができ、自分が育てられていく貴重な体験です。
妻として母として私としての人生を、肩ひじ張らずに愉快に旅していければいいと思います。
 

松上京子プロフィール
まつうえきょうこ/エッセイスト。25歳のときに起きたオートバイ事故で車椅子の生活になる。34歳で結婚後は、2人の子供のお母さんとして奮闘している。著書に『さよちゃんのママは車椅子』(小学館)などがある。

イラスト
松上紗代

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