Wa-luck(ワラック)

2020.2.18
信仰エッセイ おたすけ

ワイワイたすけ合い vol.3 「生きる姿がひのきしん」(天理教婦人会)

With you婦人会ワイワイたすけ合い


(天理教婦人会 With youより)

 
〜骨髄バンクや献血に協力しよう〜
 

白血病の方からのメッセージ

 約25年前、ある病室で、その方は「死にたくない! 死にたくない!」と言いながら、亡くなっていきました。5階の病室の窓から西日が差しこんでいて、彼の傍らには、蒼い顔をした若い妻と、手を引かれた可愛い仕草の幼い娘が立ちすくみ、主治医は大粒の涙と汗を彼に降らしながら心臓マッサージをしていて、看護学生だった私は、その方の足元でただ見守るしかできませんでした。

 その方は白血病で、私は数ヵ月前にその方の受け持ちになり、その最期(さいご)にまで呼んで頂き、解剖にも立ち会わせて頂いたのでした。

 その方の没後、私はしばらく茫然(ぼうぜん)とした日々を過ごしました。可愛い娘や愛する妻を遺(のこ)し、まだ30代で逝(い)かなければならなかった彼の無念の深さと、「死にたくない」という思いに対して、何もしてあげることができなかったすまなさに捕らわれたのです。

 しばらくしてやっと「生きたくても生きられなかった人のためにも、一生懸命生きよう、そしていつか彼の遺志に、少しでも報いることのできる人になろう」と思いました。今思えば、10代で、看護学生ででもなければできない、貴重な体験をさせて頂いたと感謝しています。

 そしてこの方との関わりは、私に、初めての献血に行く勇気をもくれました。彼が、生きるために懸命に輸血を受けていたからです。「あの人のために」という具体的な対象があると人は頑張れるものです。その対象がなくても献血に行かれる人は、想像力と人間愛の豊かな人だと敬服します。

 医療の現場では、多くの患者さんが輸血によって頬に赤みがさしたり、血圧や命が甦(よみがえ)る姿を目にします。からだだけでなく心も、輸血してくれた人からのパワーを貰って頑張っておられる姿を目にします。どうぞ勇気を出して献血にご協力下さい。

 

 時は流れて1988年、病院で「翼をください」という骨髄献血登録と公的骨髄バンク実現を訴えるポスターを見た時、あの白血病の患者さんの最期が甦りました。あれから約10年の歳月が経っていました。それまでは、「白血病は完治しない。緩解(かんかい)(病気が落ち着いている状態)に持っていくのが精一杯の病気」と思っていましたが、ポスターを見ていて、「白血病を根本から治す道が開けた。これでやっと彼の思いに報いる方法ができた!」と思いました。

 早速、資料を取り寄せ、骨髄献血希望者登録をしました。当時はまだ全国規模の公的バンクはなく、私的な「名古屋骨髄献血者を募る会」から、民間の「東海骨髄バンク」「全国骨髄バンク推進連絡協議会」と、登録先は転々としながら、しかし、少しずつ大きくなっていきました。その間、患者、家族、医療関係者の方々の努力は並々ならぬものがありました。

 一方、公的バンク設立を夢見ながら亡くなっていく白血病患者さんの話も数々耳にし、焦る気持ちや、「もしかすると社会は動かせないかもしれない」という不安の日々もありました。署名を集めたり、募金をしたり、登録の勧誘をしたりすることが、不安に打ち勝つ方法でした。私は本当にささやかなことしかできませんでした。でも私の背中を、「死にたくない!」と言いながら、亡くなっていった患者さんの姿が、後押ししてくれたので、あきらめませんでした。

 1991年、厚生省の「財団法人骨髄移植推進財団」の設立認可がおり、1992年、全国の日本赤十字血液センター「骨髄データセンター」で、ドナー登録検査開始になった時は、「やっと国の機関になった」という喜びが湧いてきました。

 良いことでも、それを実現させるのには、時間や手間がすごくかかることをこの時学びました。そしてそれはおそらく骨髄バンクだけではなく、この社会の良いしくみは、自然とできてきたものはなく、それに携(たずさ)わった先人、当事者達の、血の滲むような努力の賜(たまもの)なのだろうなと思いました。当事者が声を上げなければ、悲しいかな、社会は気づけません。もしも何かの当事者、関係者、賛同者になったら、勇気と根気を持って、社会変革に、たとえ、小さくても、その手、その声を寄せましょう。それが、たとえば、志(こころざし)半(なか)ばにして逝った人の命や意思を生かすことにもなると私は思います。

 

 

私の骨髄提供体験

 時はさらにまた流れ、ドナー登録10年後の私に、骨髄提供をさせて頂く日が来ました。ところで白血病というのは、骨髄移植さえすれば必ず治る、というわけではないのです。骨髄を頂かれる人は、頂いた骨髄が自分のものとして生着(せいちゃく)する前に、GVHD(移植片対宿主病 いしょくへんたいしゅくしゅびょう)という、他人の組織と自分のからだが闘ってしまう状況を、乗り越えなくてはなりません。その程度は人によって違いますが、発熱、全身湿疹、消化管出血、感染症と、時に命を懸けた闘いになることもあります。

 私は私の骨髄が、相手の方に重いGVHDを引き起こさずに、生着してくれるように祈りました。どうすればよい骨髄を提供できるのか、根拠はありませんが、せめてもの心づくしに、提供する3ヵ月前から、禁煙・禁酒・バランスの良い食事、早寝早起き、適度な運動を、自分に自主的に課すことにしました。そして何より「人様に合わす心づくり」に励みました。元来、高慢なところのある私にとって、「人様に合わさせて頂く」3ヵ月は、けっこう修行になりました。できるだけいつも真綿のような優しい心でいることを目指しているのですが、何かで人と摩擦を生じそうになると、私の「骨髄きょうだい」が苦しむ姿が目に浮かび、反省して、素直な心と骨髄作りに励むのでした。

 また、苦しい治療を受けて、私の骨髄を待っている人に、キャンセルの憂(う)き目を味わわせないよう、私自身の、交通事故に気をつけ、雪道での転倒に気をつけ、風邪を引かないように、なおかつ日常の仕事もきちんとこなす生活を目指しました。冬の最中(さなか)、責任の重い孤独な、自分との闘いでした。

 入院中は、面会も付き添いもなく、全身麻酔から醒(さ)めてみるとコーディネーターの人が手を握っていてくれました。また段ボール箱一杯の仕事の荷物を持ち込み、眠っている時以外はレポートを読み続けたものでした。退院後も、復調するのに、私は1ヵ月かかりました。私なりに一生懸命な骨髄提供でしたが、私は私の「骨髄きょうだい」が、今どうされているのか、生きておられるのかさえ知りません。また、自分では精一杯良いことをしたと思っていることでも、周囲に心配や迷惑を掛けていたり、ましてや、褒(ほ)められるとは限らないこともあります。「独りよがりの悲哀」のようなものを感じる時もあります。それでも周囲の人に支えられて、自分が正しいと思うことを実行させて頂けて、本当に良かったと思っていますし、冒頭の彼をはじめ、多くの患者さんに、少しは恩返しできたかなと喜んでいます。

 

 

生きる姿がひのきしん

「第22回女子青年大会」の記念行事のお話で、本部員の松田元雄先生は、「口で言うほど簡単ではないのでありますが、私は常々、生きていること自体がひのきしんとなれるような、歩いておること自体がにをいがけになるような人間になりたい、とこう思っております。」(『みちのだい』第141号)とおっしゃいました。

 私は、このお話は、「『さあこれから、ひのきしんをさせて頂きましょう』という数時間だけではなく、朝から晩まで、生かされている喜びを体現する生き方を目指そう」ということだと受け止め、「生きる姿がひのきしん、歩く姿がにをいがけ」と心に刻んだのですが、今思えば、寝ても覚めても、よい骨髄の提供のことを考えていた3ヵ月間の生活は、「生きる姿がひのきしん」に、ほんの少し、近づけた生活だったとも思います。

 自分が今生きていることが、実は、当たり前ではなく、ありがたいことと思えること、ありがたさを、何かのかたちで表現できること、その表現結果が、誰かの喜びやたすかりにつながること、そしてそれが広がることを、幸せとか陽気ぐらし※というのかもしれません。

 ひのきしんのかたちは人様々ですから、自分らしいことをされるのが一番良いと思います。もしも皆さんの中に、この話を読まれて、献血や骨髄提供活動にも協力したいと思われる方がいらっしゃったら、とても嬉しいです。

※陽気ぐらし

 晴れやかな喜びに包まれ、楽しみづくめの暮らしを言い、「陽気ぐらし」こそ、私達の究極の目的です。親神様によって生かされていることのありがたさ、かしもの・かりものの理の尊さを知り、互いに立て合いたすけあって、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れます。その姿を見て、親神様も共に楽しんで下され、神も人も一つの結び合う真の「陽気ぐらし」の世界があるのです。どんな境遇にあっても、明るく勇んだ陽気な心で日々を通れるならば、それが真の幸福と言えます。

 
(草場直子 2006年8月発行『ウィズ・ユゥ』vol.17 より)

 


(天理教婦人会 With youより)
 
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