お母さんと呼ばれる日々 vol.5「命を想うとき」(さんさい・松上京子)
「命を想うとき」
部屋の灯りをつけた途端、ハムスターのケージの中の惨劇が目に飛び込みました。十歳の私と七歳の 妹にとってはあまりにも衝撃的な光景でした。母娘三人暮らしのささやかな日帰り旅行の終わり。心地 よい疲れとともに家に帰りついた時、私たちは共食いしたハムスターの変わり果てた姿を見たのです。 ショックで言葉を失いましたが、そのままにしておくわけにもいきません。「どうしても飼いたい」と 言った妹が後の片づけをすることになりました。よく見えないようにとサングラスをかけ、手袋をしての作業です。もちろん母も手伝ってくれました。
狭いケージの中で複数のハムスターを飼うと攻撃的になるという習性を私たちは知りませんでした。安易な気持ちで、よく調べもせず二匹を同じケージで飼ってしまったことを後悔し、子どもなりに命に 対する責任を感じたことを覚えています。
よく懐いて可愛かった文鳥が死んだ時のことも忘れられません。愛らしいくちばしで餌をつつく姿や、 ちょんと手に乗る姿を思い出し、涙が止まりませんでした。翌日夜勤に出た母は、しょんぼり学校から 帰ってくる私に手紙を置いていてくれました。
「チーコは天国で元気に暮らしてるよ。かわいがってもらって幸せだったのだから、悲しまなくていいよ」手紙を読んで、私はまた泣きました。
私たちが幼い頃、命というものは時に生々しく感じられるほど、ずっと身近なものでした。インターネットが普及し、仮想の世界であらゆることがまわっていく今、命のリアルさに触れる機会が少なくなっているような気がします。
十一年前、私は友人の死に直面しました。障害者カヌー仲間の さんが脳死状態だと連絡を受けたの はお盆過ぎ。何度か一緒にカヌーをした子どもたちにも彼の体が温かいうちに会わせたいと思い、車で 三時間の病院に連れて行きました。
ベッドで眠る さんに声をかけ、そっと肌に触れました。息子は彼の名前を呼びながら体を揺すり、 「全然起きんなあ。もう起きんの?」と聞きました。 病状は説明していました。胃から血が出てショックで心臓が止まり、その間に脳が壊れてしまったこと。 「だからもう目を覚まさないし、一緒にカヌーもできないんだよ」と。ところが、自分で説明したはず の脳死がわからなくなりました。 「ほんとに寝たまま? それって死んでるん?」娘の問いにも答えられません。頭で理解することと心が納得することは違うのです。
病室には奇跡を願う、千羽鶴ならぬ千艘カヌーが飾られていました。私たちも折り紙をもらい、フ ネを折りました。フネや虫や花などを次々折る子どもたちには遊びのような感覚だったかも知れません。付き添う大人たちの複雑な思いをよそに、息子はあっさりと「こんなに折っても、もうすぐ死んでしまうんやな」と言ってしまいました。子どもは純粋であり、残酷でもあります。けれど現実は受け止めなければなりません。「うん。みんなにゆっくりお別れをしてから、その後で天国に行くよ」私はそう答えました。
帰り道、息子は「 さん、あのフネに乗って天国に行くんかなあ」とつぶやきました。「そうやな。そばにエイちゃんのクワガタとか亀もあるからびっくりするかもよ」「さよのアサガオも喜ぶかな?」「うん」私たちは、色鮮やかなフネに花や虫を乗せ、笑いながら川をゆく さんを想像して、穏やかな気持ちになりました。もちろんこれは親しい人の死を受け入れ、悲しみを和らげるための物語です。
幼い頃の私もまた同じことをしました。文鳥のチーコが死んで泣き疲れた後、光あふれる場所でチーコが遊ぶ姿を思い描きました。天国で幸せに暮らすという物語を紡ぎ始めたのです。
死が何なのか、心がどこにいくのか私にはわかりません。けれどそれは理解の及ばない摂理がある証でしょう。わからないから物語を作る。わからないことは、意味深く美しいことだと思います。子どもたちと一緒に命を想う貴重な時間でした。
松上京子プロフィール
まつうえきょうこ/エッセイスト。25歳のときに起きたオートバイ事故で車椅子の生活になる。34歳で結婚後は、2人の子供のお母さんとして奮闘している。著書に『さよちゃんのママは車椅子』(小学館)などがある。
イラスト
松上紗代